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第七編 戦争と学苑

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第十三章 非常時下の科外講義と校外教育

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一 時局と科外講義

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 学苑の講演部は、喜多壮一郎の部長在任の末期に科外講演部と名称を改めたが、恐らく、学外者がこの部と混同する惧れのないわけではなかった校外教育部の廃止とこの改称とは時期を同じくしたのであろうと推定される。前編に述べたように、喜多が学苑の誇りと特筆大書した科外講義専任講師新渡戸稲造は、昭和六年四月より年末まで、広い視野に立つ独特の人口論を講じ、更に数回の続講を予定していたというが、翌七年、反日感情沈静を念願して一年間の講演旅行に渡米したため、その計画は実らず、帰国後八年春の三回の科外講義は人口論ではなかった。新渡戸の人口論を聴講した服部文四郎(当時専門部政治経済科長)はその出版を熱心に希望した由であるが、速記原稿もいつか失われてしまったという。新渡戸は八年八月カナダで開催された第五回太平洋会議に日本代表として出席後病を得て、十月、七十年の生涯を異邦で終えたので、学苑の科外講義史上異彩を放った時期は、実質的には四年に過ぎなかったと言うべきであろう。

 講演部は、昭和十年、前年実施した明治維新に関する連続講義を一書にまとめ、喜多の序文を冠した『明治維新の全貌』を刊行したが、この頃より喜多もまた初代部長内ヶ崎作三郎に続いて政界進出を志し、十二年春衆議院議員に当選した結果、翌年科外講演部長を辞任、出井盛之が後任部長に選ばれた。かつて学苑を去って活動の天地を国際労働局に求めた経済学者出井は、前年学苑に復帰し、既に喜多の後を承けて『早稲田大学新聞』の指導に当っていたから、喜多と同じく、大学新聞を通じて科外講義を学生に周知せしめるよう努めるであろうとの期待がかけられたばかりでなく、その鋭い国際感覚を科外講義に反映させるとともに、関東大震災後の救護活動における出井の懸命な学生指揮を、次第に濃厚となった非常時への学苑の対応に再現してほしいとの念願が、恐らく田中総長の脳裏には潜んでいたのではあるまいか。学苑が文部大臣に提出した昭和十三年度の事業報告には、

本年度内ニ行ヒタル科外講義ハ二十四回ノ多キニ上リ学外ノ有識著名ノ士ヲ招聘シテ各方面ノ問題ニ就テ講義ヲ行ヒ、特ニ健康週間、国民精神作興週間、日本精神発揚週間ニ際シテハ該週間特別講演トシテ之ヲ行ヒソノ趣旨ノ徹底ニ努メタリ。

と記されているが、これが出井の就任第一年度の成果であった。学苑の科外講義の教壇に陸海軍の軍人を招聘したことは、過去においてもその例を発見できるが、昭和十一年度五名、十二年度三名、十三年度六名と次第にその数を増加した。各学部、各学校の正規の授業に時局を反映することは必ずしも容易ではなく、学苑当局が政府のそうした要請に対する比較的急速に実現し得る箇所として利用したのが科外講義であり、軍人による講義の増加はその反映であった。しかし、戦局の進展は、出井を促して再び学苑を去って大連に赴く途を選ばせたので、昭和十七年、科外講演部長の地位は川原篤(昭三政)の占めるところとなった。

 川原は信夫淳平門下の国際政治専攻の壮年教授、学苑に人材多しといえども、科外講演部長としては自己の右に出る者なしとの満々たる自信を以て就任した。十九年六月応召するまで二十ヵ月余の川原部長時代の科外講義の開催度数は四十二回、その中十四回が軍人を講師として迎えるの余儀なきに至っているのは、時勢の然らしむるところと言わざるを得ない。第四十八表は、四八二―四八八頁に掲げた第十八表以後昭和十八年末に至るまでの科外講義をまとめたものである。

第四十八表 科外講義(昭和六年四月―十八年十二月)

 なお、この時代においても、各学部、学校等でそれぞれの所属学生を対象とする科外講義が実施されているが、法学部におけるそれらの科外講義の中には、昭和十四年、『戦時体制法講話』と題して早稲田大学法理同攷会の名により、また九四四―九四五頁に既記の如く、昭和十六年および十七年、『新立法の動向』と題して早稲田大学東亜法制研究所の名により、公刊されたものが含まれていることを付記しておこう。

二 校外教育の変貌と出版部の浮沈

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 昭和に入ってからの校外教育部の活動が沈滞に向ったことは、前編第二十一章に記述した如くである。そして『早稲田学報』には、毎年夏季に校外教育部への申込みにより地方に派遣できる講師ならびに演題が列挙されており、昭和八年にはその数七十名、二百五十九題を数えているが、それを最後にその発表も中止されているのを見れば、校外教育部はその活動を停止したものと推定され、昭和十年度以降の学苑の公的刊行物にはその存在を示す証憑は全く見られない。

 なお、校外教育部は、主として校外生のために毎年学苑において夏季講座を開設し、一千名内外の出席者を集めていたが、これも昭和年代に入ると記録が欠けており、校外教育部廃止の頃には恐らく中絶したのではあるまいかと推測せられる。他方、大学は昭和十一年、「本大学に於ける初ての試み」として、中等学校教員を主たる対象とする夏期講習会を七月二十三日より八月一日まで午前中四時間、左の如き内容で、開催している。

国語及漢文科

国語教育の理論と実際 (六時間) 教授・文学博士 五十嵐力

文芸と教育 (二時間) 教授・文学博士 吉江喬松

和歌と其時代性 (四時間) 教授 窪田通治

近松を中心としたる元禄文学の展開 (四時間) 講師 石割松太郎

明治文学主潮論 (四時間) 教授・文学博士 本間久雄

日本詩史談 (六時間) 高等師範部教授 松平康国

日本精神と漢学との関係 (四時間) 高等師範部教授 川田瑞穂

説文学概論 (二時間) 高等師範部講師 川合孝太郎

我が国上代の金石文について (四時間) 教授・文学博士 会津八一

英語科

文芸と教育 (二時間) 教授・文学博士 吉江喬松

英文組立の研究 (六時間) 教授 勝俣銓吉郎

英語教授の諸問題(Text: "A Cup of Tea"by Katherine Mansfield) (四時間) 高等師範部教授 熊本謙二郎

Press Cuttings (四時間) 高等師範部講師 花園兼定

Reading and Interpreta-tion of English Litera-ture (六時間) ロスアンゼルスハイスクール教援 G.Williams

現代英米文学の動向 (四時間) 教授 日高只一

日本文学に与へたる英米文学の影響 (四時間) 講師 柳田泉

沙翁劇について(幻燈応用) (二時間) 講師 河竹繁俊

英米風物及年中行事(映画応用) (四時間) 教授 伊地知純正

科外講義(国語及漢文科英語科共通とす)

東洋文化より観たる日本音楽(蓄音器応用) 田辺尚雄

国文朗読法について(蓄音器応用) 講師 河竹繁俊

明治漢学史談 教授 牧野謙次郎

最近の欧米教育事情 高等師範部教授 原田実

最近の欧米教育事情 高等学院教授 杉山謙治

演劇博物館見学

図書館特別陳列

 この夏期講習会は、「一面には中等教育界に御活動の校友諸君の御発展に資すると同時に他面には一般教育界に学園を紹介致し度計画」したと大学名で告知しているところから明らかなように、高等師範部のPR的性格のものであったのは事実であるが、中等学校教員以外に一般人の受講も認めているのであり、校外教育的側面も若干ないわけでなかったと言っても、あながち牽強附会ではなかろう。定員は各科二百名であったが、国語漢文科百九名、英語科百八十五名が出席し、学苑出身者はそれぞれ三十一名および六十四名、中等教員以外と見られる者も合計五十八名に達していた。

 翌十二年、今回は七月二十五日より三十一日までと一週間に短縮し、国語漢文科・英語科のほかに理科を設け、前二科は講師をそれぞれ七名に、また科外講義も二名に減少したが、理科は、山本忠興をはじめ、石川登喜治、小林久平、沖巌、渡部寅次郎、塩沢正一、佐藤武夫'広田友義、秋山桂一と各分野に亘るのみならず、工場見学まで用意した。定員は一応第一回の半数の各科百名と定められたが、国語漢文科百三十七名、英語科百二十五名、理科四十三名、合計三百五名が受講した。十二年六月九日付『早稲田大学新聞』は、

中等教育の進展に貢献するものとして文部省当局においても大いにこの企てに注目、殊に私立大学にして斯る有意義な会を毎年継続する事は教育界全般に与ふる影響も絶大でその成果は頗る注目されてゐる。

と報じたが、戦火拡大の影響を蒙ってであろうか、第三回が開催されることはなかった。

 さて昭和六年の決算期に初めて赤字を出した出版部は、赤字解消の一手段として、同七年九月二十日から向う四十日間、早稲田大学創立五十周年記念図書特売と称し、既往に遡って発行図書の殆ど全部の特価販売を実施した。すなわち、逍遙訳沙翁全集四十巻をはじめ、哲学九、社会・思想十三、政治・経済・法律十六、文芸二十八、随筆十三、国語・漢文・作文十、文化科学叢書七、歴史六、自然科学十、児童・家庭二十二、工業十九、計百九十三種類に及び、割引率は平均四割、中には五割を超すものも相当数えられた。在庫品整理といえばそれまでであるが、こうした思い切った営業政策によっても頽勢の立て直しは困難であったので、昭和八年三月、資本金を半額の十五万円に減資するとともに、同年十二月、武田尾吉を専務理事に起用して、経営の刷新を図った。武田は明治四十年大学部政治経済学科卒業後、一年間の特別研究生を経て、報知新聞に入ったが、田中穂積の推薦で昭和三年出版部取締役に就任した秀才である。しかし、武田を以てしても経営は黒字を回復せず、九年十二月武田は辞任、昭和十年十一月には再び半額減資、資本金七万五千円として、漸く同十一年度から三分配当を行うことができた。その後再び無配に顚落したが、十一年十二月専務理事に就任した東清重(大五大商)の減量経営により黒字に復し、一割を配当したこともあり、昭和十八年前期八分、同後期七分の配当維持に成功している。しかし、経営改善は出版部の事業縮小の結果であり、従業員数は十八年後期には三十名に過ぎず、新刊書の刊行はできる限り手控えるの余儀なきに至った。講義録についても、十一年末には全国的に独学の気運が高潮して新入学者は異数の増加を示したものの、翌年末になると、事変による精神的動揺が甚だしく、継続率も悪化し新入学者は前年に比して半減している。ところが十三年以降講義録購読者は増加に転じ、十五年中葉には、「過去十数年間ニ未ダ比類ナキ佳良ナル成績」(第四十回事業報告書)を誇るに至ったが、この頃より用紙の割当が窮屈となり、十七年春からは募集人員を制限されたので、入学申込み者の一部を謝絶するの余儀なきに至り、前途多難を覚悟せざるを得なくなったのであった。

 校外生数の増減については、大正十三年度以降、学苑による公式数学の発表は見られない。しかし講義録の売上高については、昭和十二年度以降の記録が出版部に残されていて、一応の趨勢は察知できるから、同十八年度までの各年度(当該年六月より翌年五月に至る)の数字を第四十九表に掲げておこう。

第四十九表 講義録売上高(昭和12年6月―19年5月)